昭和43年10月22日 朝のご理解
平川直子ノート・松永享四郎
ご理解 第二節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までの残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。
先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは、神徳じゃと、これは、なる程そうだろうとこう思う、皆さんも合点が行くだろうと思いますね、先の世までも持って行かれ、子孫にも残るものは何もない、お徳以外にはないと。
判っているけども中々それを頂こうという信心、信心すれば誰でも受ける事が出来る、みてると云う事がない、神徳は信心すれば、誰でも受けられる、受ける事が出来る、いと簡単に、見易う感じられますね、この言葉から。
あまりに簡単に云うてあるから、お互いがあまりにも、簡単に頂き過ごして、ただ頂くばかり、聞くばかりで、ここん所を検討しようとしない、信心すれば誰でも受ける事が出来る、ところが、実際は誰も受けられてないのです。
ですから、現在お互いがしておる信心、又は、して来た信心ね、沢山の人が信心して参りましたが、そう云う信心では、誰でも受ける事が出来ると仰有るけれども、誰も受ける事が出来ていない。
みてると云う事がないと仰有る様にね、限り無く頂けると仰有るのに、それを受けていないのです、神徳は信心をすれば誰でも受ける事が出来ると仰有る信心とは、そんなら、どう云う信心をさしておられるのであろうかと。
教祖様が嘘を仰有っておられるとは思われない、私はよくよく読む、例えば皆さんがこうやって朝早くから、合楽に通うて来る、本当にご理解を頂かして貰うと云う事が、み教えを頂かして貰うと云う事が、朝のご祈念の一時が、なんとまあ、いと有り難いとと云うので信心をしておられます、ね。
ですから、如何にもそれがあの信心の様ですけれども、それを、もう一つよくよく厳密に探ってみなければいけません、そして、結局どう云う事になるかと云うとです、ね、世間一般で云う、ね、「苦しい時の神頼み」と云う事を申しますね、厳密に云うとですね、「苦しい時の神頼み」と云う信心がスム-ズだからいけんのです。
お互いの信心を厳密にです、検討してみてごらんなさい、だから、そう云う信心では、何十年、一生信心しても、私は、そう云う信心は「苦しい時の神頼み」的な信心では………
ところが、合楽の人達の場合はですね、ある意味合いにおいては、あまりにもそう云う物ではない様に見えるのですね、ご用を中心にさして貰う、信心は判る、聞かして貰う事が有り難いと思うてお参りをしておる様であるけれども、よくよくそれを検討するとやっぱり「苦しい時の神頼み」的な信心が非常に濃厚です。
お互いの心の中を検討してみなけりゃいけませんね、それは、日々お参りをして、お願いをする事、そのお願いが、いかんのじゃろうかと云うのじゃないです、ね、今月今日で一心に頼めと仰有る、今月今日、やはり一心に頼まなければおられない事ばっかりなのです。
この世では、行く手にも周辺にも、ね、障子一重がままならぬ、人の身と云う事が判れば、判る程、一心に頼み参らせなければ居られない事ばっかりなのだね、どんなに一心に頼んでも、どんなに願ってもよい、ね、けれどもただそう「苦しい時の神頼み」的な、的なと云うよりも、神頼みになってはならないと云うだけの事、ね。
このご理解第二節を、今、読ませて頂きました、頂きますとですね、もうほんとにやり過ごしてしまう、頂き過ごしてしまう、そして、それを神徳と誰でも受ける事が出来ると仰有るのに、………
今、過去自分が知って居る限りの人達をこう見てから、金光様の信心しておる人達を、あ、あっちゃ熱心に信心が出来よると云う人達を見てです、ああ、あれがお徳というもんじゃろう、あれがあの世にでも持って行け、この世にも残しておけるものだろうと云う様な、お徳に触れて行って居る人は沢山はない。
殆どの人が、いわば受けてはいないと云う事、ね、どう云う信心をすれば、信心すればと仰有るが、どういう信心すればそのお徳を受ける事が出来るじゃろうか、みてる事のないと云う、お徳に触れる事が出来るじゃろうか、と、あまりに、この様に簡単に、なにげないし、なにげない説いてございますから、ここ、私共、何げなく通り過ごしてしまう感じが、致しますですね。
ただ、無事こうやってお参りしよりゃ、いつか頂くじゃろう、漠然と云えます、そげなもんじゃないでしょうが、それでは、んなら、一生たっても、なんだと云う事になる、なら、ここに一つ本気でそこん所を検討してみなければいけないと、私は思うんです。
私は、今朝のご祈念に、ある方がね、桜が一杯満開になっておる、その下でですね、この楽器、鼓、ねえ鼓を持ってこう楽しそうにしておられる、それは丁度、桜の下で記念写真でも撮って居られる様な感じですね、こう鼓を持って桜の下で、あのう居られる様なお知らせを頂いた。
どう云う事だろうかと、そして、教典を頂かして貰うたら、ご理解第二節を頂いた、桜の下のその鼓と、ご理解第二節が、どういう関わり合いがあるのであろうか、そして、ご理解第二節を読ませて頂き、判らせて貰うて、うん、ただやり過ごして行くのは、それまでですけれども、神徳は、信心をすれば誰でも、受けて貰いたいと、こう思うんです。
合楽にご神縁を頂いて居りなさる一人一人に、誰でも受けられると、誰でも受けて貰いたい、そんなら、皆さんが信心をなさらなければいけない、そこで、その信心とは、「苦しい時の神頼み」的な信心ではいけない。
如何にも、信心が判る事が楽しみの様にしておっても、厳密に云うと、やはり、自分の信心は、「苦しい時の神頼み」的なものであるなと、悟らせられる。
そこで、も少し根本的なところに目指したところの信心、ご神縁を頂いて、せめて、ね、せめて朝参りでも出来る位な熱心な人に、一人一人に頂いて貰いたい、熱心さが、熱がなからなければ朝参り出来やせん、だから、その熱がです、本当に信心に繋がらなければ、お徳が受けられる、あの世にも持ってゆけれる、この世にも残しておけれるという、それに繋がっておらなければならないと、私は思うんですね。
『苦しい時の神頼み』これでは、やはり、私は、この桜の花の下にとこう云う、桜と云う字はですね、あの木扁に貝を二つ書いて女と書いてある、あの桜にせずにね、佐苦楽(さくら)と書いてみた、「さ」は人篇に左、「く」は苦労の苦、「ら」は合楽の楽、「楽」と云う字は「ら」と読むんですね、真の所謂、苦楽と云う事ですね、「佐」は合楽の信心と云う意味にとられたら、いいでしょう。
来るしい時、ね、苦しい時は、これはまあ、一応誰でも、一生懸命信心が出来ますね、所謂、『苦しい時の神頼み』的なものがあつから、苦しい時にはやはり、一生懸命神様におすがりをさせて貰おう修行でもさせて貰おう、という一生懸命の心が、神様に向かう訳です。
そこで、皆さんは、今度は、その反対の楽のおかげを頂いた時の事を思うてみなきゃいけません、ね、何かに不自由をしない、結構なうちうちに、おかげを頂いた時、私共の周囲には信心はなくても、それこそ、結構なおかげを頂いて居る人があります。
所謂、苦労知らずに、過ごしておる人達も沢山あります、だから、自分達が、あの様なおかげを頂いた時の事を、一つ思うてみなければいけません、ね。
そういうおかげを頂くために、まあ、一生懸命信心をしておるが、そう云うおかげを頂いた時に、本当に信心のいわば妙境とでも云われ、思われる様な信心が果たして出来るだろうか、ね。
本当にこの様な結構なおかげを頂いて有り難いなあ、勿体無いなあと、有り難いなあ、勿体無いなあが、今の様に、迫力を持った信心で、それを続けて行けるだろうかね。
あの時分には、苦しい事があって、一生懸命合楽通いをした、私、あの鼓というのは、あの千鳥掛けとか申しますね、あの紐が掛けてございます、こう千鳥掛けに、それをこう適当に締めさせて締めなければ、良い音色が出らんね、締められなければ良い音色が出ない、ギュウギュウ云わせられなければ、信心は判ろうとしない、私は今日頂いたお知らせをそんな風に感じるのです。
締め上げられなければ「金光様」と芯からのものは出て来ないね、これではね、「苦しい時の神頼み」ですから、もし、それは良い信心の味わいと云うものを、味わいかかっても、信心ちゅう有り難いと云う事が判っても、勿体無い事が判っても、ね、苦しい時に判る信心、苦しい時に縋がる信心、それでは、私は、お徳は受けられない、ね。
段々おかげを頂いて行けば、頂いて行く程に、有り難い勿体無いが本当なものに、繋がって行く、ね、云うなら、叩かれながら、叩かれてでも有り難い、と判る信心、ね、そう云う信心だけではいけない。
まあそれとは反対にね、撫でさすりされる様な、有り難さとそう云う様ないわば、楽な時にね、いよいよ勿体無いの信心が募る、それこそ、信心も出来ませんのに、この様なおかげを頂いて、ね、有り難うて、有り難うて、そのお詫びも足りないし、お礼も足りない、お詫びばかりを致して居りますと三代金光様が仰有ったお言葉、あの辺の所がですね、出来る信心。
そう云う信心が頂けなければ、私は、あの世にも持って行けれる、この世にも残しておけると云う様なお徳は受けられない、そこで、お互いがですね、ここんところに一つ焦点を置いたところの信心、所謂、もう本格的な本格派ですね。
信心の本格派にお互いがならせて頂く、ね、その為に、私は教えを本気で頂かなければいけないね、この方の信心は、病気直しや災難除けの神じゃない、心直しの神じゃと、こう仰有るがね、病気直しや、災難除け的な信心から、ね、いよいよ心直しの信心ね。
心直しと云う事は、改まるとか、磨くとかね、とう事なのですけれども、それはですね、そう努力精進しなければ、教えが本当に入って行かないのです、教えが判らんのです。
そこんところをよく云われます様に、その受け物が良くないとですね、結局自分流の我流なものになって来るです、教えがね、例えば、油徳利に、酒を詰めた様なものになるんです、ね、ですから、ハハアお酒とはこんなに油臭いものだなあと云う事になって来るんです。
だから、それを人が見ても、やはり、信心を批判し、非難したりする訳ですね、信心とはこの様に美味しいもの、この様に素晴らしい香りのあるもの、素晴らしいそれを頂けば、飲めば飲む程に、酔えば酔う程に、心が上がって行くもの、と云う事になってこない、ね、これは、おかげの受けものがなからなければとこう云われておる。
今日はここんところを、信心の受けものとね、幾ら教えを頂いても頂いてもです、自分が我流にそれを受けて、自分の都合のよかごたる風にばっかりに頂いて行く事になるんです。
自分が本当に極まらして貰う、改まらして貰うと、そこに、頂かして貰う、み教えでなからなければいけません、ですから、愈々、有り難い勿体無い、にと云う事になっていき、その有り難い勿体無いの中に、おかげが段々頂いて来る様になり、ね。
そう云うおかげがそのまま、お徳になり、あの世にも持って行け、この世にも残しておけると云うのは、こう云うもんじゃろうかと云う事になる。
それこそ、天地が自由になるね、天地が自由になる、所謂、自由になって下さる、私の為にね、そう云う私は、おかげをね、皆さんに頂いて行かなきゃいけません、と。
「神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る」ここんところを唯お参りしよれば、拝みよれば、合楽に通いよれば、受けられる、いつか受けられるじゃろうと、云った様なものではないと云う事を、今日は知って欲しいのですね。
信心すればと、いと簡単に云うて居られる信心とは、どう云う信心か、それを、私は、今日はね、桜の下に、鼓を持って立っておる、そう云うお知らせを頂いてね。
このご理解第二節を頂いて、「神徳は信心すれば誰でも」と仰有る、誰でも受けられる信心とは、桜のもと、所謂、佐苦楽ね、本当の苦楽、真の苦楽の中にです、苦しい時でも神頼み、苦しい時でも一心になる、イヤ苦しい時だけ一心になる、そう云う一心が楽になれば、もっと素晴らしい意味あいにおいての一心が出る、様な信心ね。
締め上げられれば,締め上げられる程、良い音色が出ると云うだけでなくてね、ではなくても、そこに、私は良い音色が出て来る信心、楽になればなる程、有り難い勿体無いが育っていく信心、ね、これはね、合楽での場合でもそれは云えるんですけれども、少うしばっかりおかげを頂き、楽になると確かに、信心がね、弛んでくる事だけは間違いないです。
ですから、本当の良い音色が出てないのですけれども、何て云うんでしょうかね、その腰掛けているんですね、別に、さあ金に不自由する訳じゃなし、健康にもどうやらおかげ頂いておる、家庭も大体円満であると云うそれだけです、それ以上は信心を進めて行こうとしない。
そこからこそ、信心を進めて行きゃあ、愈々本当な信心がですね、愈々そこから、信心に云うてあるところの、みてる事がないと云うおかげに触れて行けれるのですけれども、そのみてる事のない、限りのないおかげに繋がって行こうとしない向きが、非常に強いのです、ね。
ですから、私は、まあこの一生懸命、いろいろなこうやって、朝参りの修行でもなさって居られる時にです、そこのところを良く良く判らせて頂いてね、この信心がね、弱るとか、この信心が愈々成長して行くとかね、愈々本当なものに、どの様におかげを受けて行ってもそれが、伸びて行く以外他はないと云う様な所まで、信心を一つ進め判らして頂いて行くならばです、このご理解第二節が何げなく頂き過ごしてしまう様な、そのみ教えの中に、なる程、誰でも
受ける事が出来るんだなと。
なる程、みてると云う事がないんだなと、なる程これならば、あの世にも持って行けるだろう、この世にも残しておけるだろうと、云う確信の持てれる信心の徳ですね、身に付けて行く事の楽しみをね、体得させて行き、覚えさして頂きたい、そんな風に今日のご理解第二節の中から感じさせて頂きました、ね。
お互いはそうではない、もう、うちこそ、私こそ、信心を求めてと云うておるその信心をもう一辺検討してみて下さい、そして、自分のこの難儀が、もし無かったら、果たしてこの様な現在の信心がでけておるだろうかと、検討してみて下さい。
そして、愈々やっぱり、自分の信心は、「苦しい時の神頼み」的な信心であるなと云う事を、判らして頂いたら、それではいけない事を一つ判らして貰うて、ね、本格的ないわば、信心に進んで行くおかげを、願わなければならんと思うのでございます。
どうぞ。